タイトルにひかれて手に取りました。
当事者の方の心情や体験が臨場感を持って伝わる作品でした。
支援者の立場にいると「病識の欠如」や「医療中断」、「服薬中断」という言葉を普段から使っていて、それらを問題視する傾向があります。
しかし、「病識の欠如」や「医療中断」「服薬中断」は結果です。
それらいずれもが、当事者にとってはそこに至る理由や根拠があり、「病識の獲得」や「医療継続」「服薬継続」が容易ではないことが本書を読んで少しわかったような気がします。

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本作品について―元作品の改訂版
著者の小林和彦氏は大学卒業後、アニメーション制作会社に入り、アニメーター、演出家として人気アニメ作品に携わっていましたが、在職中に幻覚妄想状態の症状が出現し、精神科入院に至りました。
幼少期から学生時代まで、社会人になってから発病するまで、その後の経緯が小林氏自身によって事細かに綴られています。
本書は、すでに出版されていた「東郷室長賞 ―好きぞ触れニヤ―」という作品を改題の上、加筆・改訂されたものだそうです。
この世界は誰かの作り物
症状が出始めたころの著者はとにかく過活動で、睡眠もそこそこに企画書を書き続けたり、目的を果たすため人に会ったりあちこち場所を移動します。
多幸感・万能感に包まれていたかと思えば、次の瞬間は恐怖を感じているなど場面が目まぐるしく変わります。
やがて著者は何かがおかしいと気づき始めます。以下は本文からの引用です。
目に見えるもの、耳に聴こえるもの、周りのすべてのものが、どこかよそよそしく、不自然なのだ。何者かが、「この世界は僕のためにある」というシグナルを絶えず送り続けている感じなのだ。(中略)ゴミ箱の中身が僕と関係のある品々ばかりなのも、すべて偶然なのだろうか。何者の仕業かはわからなかったが、僕をどこかしらへ導こうと壮大な芝居を演じているのではないか、そんな気がし始めた。
小林和彦 「ボクには世界がこう見えていた 統合失調症闘病記」 新潮文庫
この部分だけ見ると、まるで映画「トゥルーマン・ショー」のような世界観です。
「トゥルーマン・ショー」は、平凡なサラリーマンのトゥルーマンが、じつは生まれたときからリアリティーショーの主役として外の世界で生中継されていたという話です。
トゥルーマンだけがその事実を知らず、彼以外の人物は家族・友人・同僚もみなただの配役で、すべてリアリティーショーのための演者というブラックユーモア色の強い筋書きです。
本書で著者は、誰かが自分の様子を遠くから撮影しているような気がした、とも述べています。
映画は著者の最初の入院から少なくとも10年はあとの時代に作られたものです。
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病との境界
進行形のコロナ禍の現実世界も、現実味があるかといえば、2020年初頭から信じ難いこと続きで、正直ついていけてない部分も多々あります。
今のこの世界のありようなど誰も想像していなかったに違いありません。
未知のウィルスが世界に混乱を招く系の映画はありましたが、少なくとも映画だけの世界でした。これまでは。
現実に起こっているという認識は当然ありますが、それでもたまにふと疑いたくなるときもあります。
この世界を疑う発想自体は、クリエイティブな世界でも自分の日常でも存在しているようです。
ではどこからが病による症状なのかと考えると少し難しい。
もちろんこの部分だけを切り取って議論することはできません。
本書には症状の悪化を示すようなエピソードがいくつか登場します。
病気は総合的に診て、日常生活を送るのが困難と判断され治療を要する状態を指すのでしょうか。
本書から、病的な状態は正常の延長線上にあることが読み取れると思います。
自分は自分のまま、両者は地続きで切り離されているわけではありません。
正常の延長線上にあるがゆえに、周囲の認識「病識の欠如」が生まれてくるのではないかと思いました。
少なくともある程度数値やデータで示される病気であれば、例え無症状で目に見えなくても納得しやすいというか、病識は持たざるを得ない気がします。
またいったん症状が悪化してしまうと、その状態で、自身の病気を認識するのはさらに困難になると著者は述べています。
「病識の欠如」や「医療中断」「自殺企図」など結果を示す言葉だけでは実際わからないことばかりです。
症状の出方は人ぞれぞれですが、「そうだったのか」と納得する点がいくつもありました。
